エトノスシネマ

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2020.10.30

特集:野田真吉〈東北のまつりとくらし〉

ドキュメンタリー映画作家・詩人の野田真吉が〈東北のまつりとくらし〉を描いた4作品

野田真吉(1916-93)は、〈映像民俗学〉の確立をめざし、1970年代に人類学者の野口武徳・民俗学者の宮田登・映像作家の北村皆雄とともに「日本映像民俗学の会」を立ち上げました。研究者と作り手の交流と議論のための場をつくるという会の理念を、エトノスシネマも受け継ぎたいとの思いから、野田の4作品を公開します。

野田は、戦前より文化映画の演出に携わり、戦後の東宝争議に参加したあと、フリーの演出家となって数々のドキュメンタリーを手がけました。この度公開する4作品は、野田が本格的に〈映像民俗学〉を志向する以前の1950年代に演出したものです。その後、70年代以降に「民俗神事芸能三部作」や『ゆきははなであるー新野の雪まつり』といった特異な映像民俗学作品を自主製作します。

今回、4作品の版権を有する東京シネマ新社代表の岡田一男氏より、制作当時の背景について寄稿していただきました。戦前からのキーパーソンが跳梁跋扈する戦後の文化映画史の一断面を描き、当時の息吹を彷彿とさせる貴重な証言です。作品とともにどうぞご覧ください。当時の貴重な映画プレスシートも合わせて掲載します。

『この雪の下に』(1956年/33分)
『東北のまつり 第1部』(1957年/10分)
『東北のまつり 第2部』(1957年/11分)
『東北のまつり 第3部』(1957年/22分)

野田真吉と第一期東京シネマ  岡田一男(東京シネマ新社代表)

 日本映像民俗の会の発起人の一人である野田真吉(1916-93)は、日本のドキュメンタリー映画に偉大な足跡を残した大先輩だが、会の創立以来、彼が他界されるまで、会の活動を共にした者として、また教育・科学・文化に関わる映像制作プロダクション、東京シネマ新社の代表者として、野田真吉の映画人生の中で重要な幾つかの作品の著作権を管理している者として、エトノスシネマの発足にあたり、初期東京シネマと野田真吉の関わりについて論じてみたいと思う。それは、1954年から1960年と60年以上も前の事であり、これからエトノスシネマを担っていくであろう若い世代の方々には、想像も困難な過去の話かもしれない。しかし、野田真吉作品は、この秋にも大阪、国際美術館主催の充実した回顧上映が行われるなど、上映の機会もかなり多いので、こうした一文も存在意義はあるかと思う。

 東京シネマは筆者の父、岡田桑三(1903-83)らによって、1952年ごろから活動を開始した。短期の有限会社期を経て、1954年に株式会社化され、主に大企業をスポンサーとした短編PR 映画の分野で1966年の経営破綻まで、12年間におよそ100作品を製作した。主取引銀行が債権取立てを回避したので、破綻以降も法人自体は維持され、幾つかの作品を製作し、1973年に関連会社を社名変更した東京シネマ新社に製作体制を移行させた後も、著作権管理を岡田桑三の他界まで続けた。1983年以降は、法人登記を閉鎖し、全ての著作権を東京シネマ新社が継承した。発足当初から、制作会社としての企画力が強く、岡田桑三は、製作契約書に必ず、著作者、株式会社東京シネマと謳って、著作権が製作会社にあることを主張していたこと、大部分の作品が、35mmイーストマンカラーネガで撮影され、現像所が、東洋現像所(現在のImagicaLab)一社であったことなどから、例外を除き逸散を免れ、現在では大部分の完成原版が、作品著作権を東京シネマ新社が留保する形で、国立映画アーカイブ所蔵の国有財産として保存されている。
『この雪の下に』より

 岡田桑三の生涯については、原田健一・川崎賢子の評伝「岡田桑三 映像の世紀 グラフィズム・プロパガンダ・科学映画」平凡社、2002があり、かなり詳しく論考されている。横浜の日英混血児の母の豊かなクリスチャン人脈のもとで成長しながら、少年期アナキズムに傾倒し、19歳で舞台美術家を目指してベルリンに留学、その途上の船中で横浜正金銀行ロンドン支店に赴任途上の26歳の渋沢敬三(1896-63)と親しくなる一方、ベルリンではマルクス主義を受容し、それを生涯捨てなかった。2年間のベルリン滞在中、熱心に舞台美術を学んだが、関心は映画に移っていた。旅の途上、パリの当時、世界最大級といわれたスクリーンを誇った映画館、ゴーモン・パレで、ロバート・フラハティ(1884-1951)の『ナヌーク(極北の怪異)』を見て衝撃を受けたのだ。

 帰国後、日活・松竹で20年近く、芸名、山内光という商業劇映画の映画俳優の傍ら、プロキノ運動を支援し、演劇・舞台美術・写真・出版にも関わった。戦時期前半には、国際プロパガンダ雑誌『FRONT』の編集人を務めたあと、満映理事長、甘粕正彦(1891-1945)に招かれ渡満、カラーフィルム開発のコーディネーションに従事して敗戦を迎え、ソ連軍の侵入、国共内戦、引揚げの辛酸を嘗める。帰国を果たすと、占領軍に公職追放中の渋沢敬三と大博物学者南方熊楠(1867-1941) の遺稿出版、顕彰事業を共にした。それが一段落した後、出版活動の継続を目指すが挫折した中、渋沢の指示で、彼の執事であった杉本行雄(1913-2003)の十和田湖観光開発の一環として十和田科学博物館設立にあたった。杉本は渋沢の収集民具の展示を考えていたが、渋沢は十和田湖で博物館をやるなら、世界最大級のカルデラ湖を中心に据えろと主張した。杉本は民具展示にもこだわって、地学系の展示を岡田桑三が調整し、民具展示は、渋沢門下の宮本馨太郎(1911-79)が担当した。この時期、渋沢の旧アチック・ミュージアム、日本常民文化研究所が財団法人化されるが、それに評議員として名前を連ねた。
『東北のまつり 第1部』より

 博物館建設は一過性のものだったが、継続性のある、いわば光を見出したのが短編映画製作だった。そのスタートは渋沢とは関係ないところから現れた。今般、ご覧いただく4作品のスポンサー企業、東北電力との関わりである。敗戦により、日本は連合軍総司令部(GHQ)に占領統治されることになったが、その中で1952年に電力会社の再編成が行われた。新しく誕生した東北電力の初代社長は、日本発送電東北支店長だった 内ヶ﨑贇五郎(うちがさき・うんごろう、1895-1982)であった。そこへ中央から吉田茂首相の対マッカーサー司令部との交渉役だった、白洲次郎(1902-85)が会長として送込まれた。白洲は飾り物の会長ではなく、東北電力経営に手も口も出した。送り込まれるにあたっては、手土産に只見川水系の発電利用権を東京電力からもぎ取ってきた。機動力をもったサービスを行えるよう、東北電力の社用車の主力を不整地をものともしない英国製の四駆車ランドローバーとし、送電線保守に電力会社として初めて、シコルスキーS-51ヘリコプター2機を導入させた。シコルスキーは米国企業であるが、東北電力が導入したのは、英国企業、ウェストランド社がライセンス生産した英国製だった。

 白洲は格好良い、正に英国紳士であったが、その優雅な暮らしには裏もあった。彼は個人的にローバー社やウェストランド社といった英国企業とエージェント契約を結んでおり、東北電力の装備が強化されるたびに、彼の英国口座にはエージェントコミッションが振込まれる仕掛けとなっていた。東北電力は、東北随一の大企業ではあったが、電力を大消費してくれる工場群は当時に東北にはまだなかった。折角の只見川水系に水力発電所を建設するにも充分な財源はなかった。そこで外債を募るためのプロモーション映画を作ろうと言うことになった。実務を担っていた内ヶ﨑以下の仙台勢の第一関門は、口煩い白洲会長に絶対に、けちをつけられない完璧な英語版をつくることだった。(本文の続きは下記PDFリンクへ)
『東北のまつり 第3部』より