松村圭一郎作品集 ethnographic home video
世界を理解するために、言葉をつづり、概念を紡ぐことで探索してきた人類学者にとって、映像で表現することにはどんな意味があるのでしょう。本を書くことや、論文を執筆することとどのように異なるのでしょうか。『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)などの著書で知られる文化人類学者の松村圭一郎は、長年フィールドワークを行うエチオピアで、ある時からビデオカメラを用いるようになりました。
最初の「観客」はエチオピアの村人たちだ。まず彼らに観てもらうためにその生活の記録を残す。基本的にカメラを向けるのは、ずっとお世話になってきたアッバ・オリ家族やその近所の人たちだけだ。Ethnographic home videoというネーミングには、そんな意味を込めた。(松村後掲より)
松村がカメラを向けるのは、コーヒー栽培の盛んなコンバ村で1998年以来世話になってきたアッバ・オリの家族や隣人たち。彼らの暮らし、暮らしに訪れる出来事が、どんな意味を持つのか、どんな家族の歴史となりうるのかわからないままカメラを回します。それはフィールドワークの延長であり、家族のように付き合ってきた人たちの記録−ホームビデオ−でもあるような映像として生み出されました。
『マッガビット~雨を待つ季節~』は、2008年に、中東への出稼ぎブームが突然村に訪れた際に撮影されました。見知らぬ異国に働きに出るために、村の女性たちはブローカーを介して渡航の手続きをします。準備に多額の金がかかります。ビザが下りるのか、どの国に渡航することになるのかわからないまま、女性たちは不安と期待の入り混じった時間を過ごします。
『アッバ・オリの一日』は、松村が長年世話になってきたアッバ・オリのある1日を捉えた映像。84歳(2019年2月撮影時点)で、村の最長老でもあるアッバ・オリは、足を悪くしたため出歩くことが出来ません。しかし、家の半径5メートルの暮らしには、子どもや孫、友人たちが訪れ、サルも、虫も、風もやってきます。様々な生命に囲まれた「老い」の時間がひろがります。
状況をよく飲み込めないまま、夢中になって回したというカメラには、村人が暮らす時間、光、風の音、生き物たちのざわめきが定着しました。そして、それらの映像は、やがて未知の言葉や概念への架け橋になると松村はいいます。
言い尽くされた物言いではない「理解」を見いだせるまで、イメージをイメージのまま、時間の断片を撮りためる。映像は、その意味の欠如を、いつか納得のいく言葉が埋めてくれるまでの未完の民族誌なのだ―(松村後掲より)
特集【松村圭一郎作品集 ethnographic home video】では、文化人類学者・松村圭一郎がカメラを構えてフィールドに向き直し撮り留めた2作品を、映像の可能性と限界を考えたテキスト『映像を撮り、だれかに観てもらうこと。』とともにお送りします。
【シネマ館】 『マッガビット~雨を待つ季節~』(2016年/28分) 【シネマ館】 『アッバ・オリの一日』(2020年/36分)
《松村圭一郎作品集 ethnographic home video》予告編
映像を撮り、だれかに観てもらうこと。
松村圭一郎
2008年から調査地のエチオピア農村で映像を撮るようになった。最初に村を訪れて10年がたち、調査がひと段落したタイミングだった。購入したハンディカムをエチオピアに持参すると、村では中東への出稼ぎブームが起きていた。
村中の若い女性が海外渡航の手続きをはじめていた。乾季の終りの村は、日差しがきつく、埃っぽい。男たちは雨乞いの儀礼を行い、播種のために雨が降りだすのを待っていた。仲介業者からのビザ発給の連絡を待つ女性たちは、不安と期待の入り交じった落ち着かない様子だった。
2週間ほど村にいて何のプランもないまま夢中でカメラを回していると、雨を待ちわびる男性たちの姿と、あらたな未来を心待ちにする女性たちの姿が交差するイメージだけが浮かんできた。帰国後、20分ほどの短い映像「マッガビット~雨を待つ季節」を編集した。
エチオピアの村で編集した映像を観てもらうと、「おまえ、やっと仕事したな」と言われた。日本語で書いた本や論文を渡しても、私が「調査」と称してなにをやっているのか、彼らにはわからない。それ以来ずっと、最初の「観客」はエチオピアの村人たちだ。まず彼らに観てもらうためにその生活の記録を残す。基本的にカメラを向けるのは、ずっとお世話になってきたアッバ・オリ家族やその近所の人たちだけだ。Ethnographic home videoというネーミングには、そんな意味を込めた。
カメラを手に現場に入って、人びとと関係を築きながら、映像を撮る。それは誰にでもできる。長年のフィールドワークをとおして対象と信頼関係を築いているからこそ、人類学者にしか撮れない映像があるわけではない。映像という表現手段を使って人間の営みを描くという点において、ホームビデオも、ドキュメンタリーも、民族誌映画も、同じ土俵に立っている。
突然、村中の女性たちが国境を越えて働きに出る。世界中で繰り返されてきたこの事態を目の当たりにして、私はまだ状況をよく飲み込めないままでいる。だからこそ、コトバとして意味を固定するまえに、ただカメラを回した。言い尽くされた物言いではない「理解」を見いだせるまで、イメージをイメージのまま、時間の断片を撮りためる。映像は、その意味の欠如を、いつか納得のいく言葉が埋めてくれるまでの未完の民族誌なのだ。
人類学が思考し探索してきた世界の理解をイメージの表現として世に問うことには一定の意味がある。エチオピアの映像を観てもらい、上映後に質疑応答を重ね、村の生活やその背景などを解説する。そうした経験をとおして、私自身の研究や考えていることを伝える手段として、映像の敷居の低さ、イメージの伝播力の強さを体感してきた。
だが大学の授業でエチオピアの村の映像を流すと、学生からはきまって「あんな貧しい生活でかわいそう」とか、「日本に生まれてよかったと思いました」といった感想が寄せられる。アフリカに興味をもつ市民の方からは、「おそろしいブードゥー教みたいなのがあるんですよね?」といった質問が出たりする。こちらの意図とはかけ離れた意味が読みとられ、エキゾチックなイメージを消費したいという欲望にもさらされる。だからこそ、映像では、その未完の意図や意味をすりあわせ、ともに探る対話という別の時間の共有が重要になる。
映像表現が人類学になるためには、その試みの根底に、浮遊するイメージの断片に言葉を与え、意味の欠如を補っていく思考と対話のプロセスが欠かせない。映像の撮影、編集、上映は、そのプロセスの一部であり、終着点ではない。
人類学が学問である以上、既存の言葉/概念を揺さぶり、いまだ手にしていない言葉/概念を練り上げる試みを放棄するわけにはいかない。映像がその未知の言葉/概念への架け橋となる限りにおいて、それは「人類学する」ことの一部になるのだ。
(松村圭一郎(2021)「欠如としての映像、過剰としての言葉―人類学における映像表現を考える―」『人文学報』No.517-2(社会人類学分野14):1-9.から一部抜粋したうえで加筆修正)
【松村圭一郎プロフィール】
1975年、熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類
『マッガビット~雨を待つ季節~』(2016年/28分)
東京ドキュメンタリー映画祭2018・短編部門上映作品
『アッバ・オリの一日』(2020年/36分)
東京ドキュメンタリー映画祭2020 特集「映像の民族誌」上映作品